問屋場跡
人間継や飛脚・荷物を取り扱うところで、問屋前は他のところより道幅も広く、水害対策として建物も宿内で一番高いところにありました。
木屋瀬3丁目17番- 街道の歴史に声を傾け、遥かな道をたどる。北九州市 長崎街道 木屋瀬宿記念館 -
のどかな宿場町に満ちる江戸の風情
「
甲比丹
も
鸚鵡
とともに泊まりけむ 木屋瀬の宿ふるさとにこそ」と
伊馬春部が歌った木屋瀬は、
今も残る古い町並みが遠く江戸の風情を漂わせています。
木屋瀬宿は、筑前六宿とよばれた宿場町の1つで、赤間道と飯塚道へ向かう追分の宿として栄えました。
東構口(黒崎口)と西構口(飯塚口)で囲まれた宿場内には、本陣や脇本陣、問屋場や群屋などの諸設備が完備されていました。また、外敵からの防衛のため、町割りに工夫がなされており、「く」の字に曲がる街道や、「矢止め」と呼ばれるのこぎり型の家並みが特徴的です。
人間継や飛脚・荷物を取り扱うところで、問屋前は他のところより道幅も広く、水害対策として建物も宿内で一番高いところにありました。
木屋瀬3丁目17番東構口から約900mの位置に、福岡藩の宿駅の面影を良く残した構口があります。方位にかかわらず上りが東、下りが西と呼ばれました。(市指定有形文化財)
木屋瀬4丁目16番木屋瀬宿の出入り口であった構口は、岡森用水路のすぐそばにありました。西構口と同様の構造で、石積みの上に瓦葺きの土塀がありました。
木屋瀬3丁目1番(永源寺に保管されている本陣の門跡)御茶屋は福岡藩主の別邸であり、大名・公家・役人等の休泊に使用されていました。総建坪は約190坪ありました。
木屋瀬3丁目16番江戸時代、木屋瀬での年貢米輸送は、24艘の川ひらたで行われていました。船庄屋は、この船の管理を行っていたところです。
木屋瀬4丁目7番この村庄屋は、1858年に村全体の世話をする木屋瀬村庄屋となり、後に笹田村の庄屋も務めました。
木屋瀬4丁目13番年貢の取り立てと国継ぎを行うため、代官・下代(3〜5名)が常勤していました。この路地は、地元では「代官小路」と呼ばれています。
木屋瀬4丁目6番「向こう三軒両隣り」などで有名な放送作家・伊馬春部の生家です。建物は江戸時代末期(1853年頃)の代表的な宿場建築として極めて貴重です。(市指定文化財)
木屋瀬4丁目12番5号長崎街道と赤間道との分岐点を示す道標で、本物は長崎街道木屋瀬宿記念館にあり、現地にあるのは複製されたものです。
木屋瀬4丁目14番郡内の村役人と藩の役人の集会所として使われ、大名などの通行の人馬割当、年貢の調整、普請の打ち合せなどを相談しました。
木屋瀬3丁目17番御茶屋の予備的宿舎で、日田代官、公儀役人、オランダ人等の休泊所に使用されていました。
木屋瀬3丁目16番北九州市立 長崎街道木屋瀬宿記念館
〒807-1261
北九州市八幡西区木屋瀬3-16-26
TEL 093-619-1149
FAX 093-617-4949