木屋瀬フィールドミュージアム
木屋瀬の偉人たち、有給の語らい。郷土で生まれた志、偉人たちの心に学ぶ
伊馬春部
いまはるべ
【劇作家・放送作家・歌人】
木屋瀬が生んだ文人で、放送作家の草分け的存在として知られています
本名・高崎英雄。鞍手中学校(現鞍手高等学校)から国学院大学ヘ進み、民俗学者折口信夫(歌人・釈沼空)に師事。伊馬鵜平の筆名で「新宿ムーラン・ルージュ」創立期の座付き作家のひとりとして活躍しました。戦後は春部と改め、ラジオ、テレビ、映画、舞台の脚本等を手掛け数多くの作品を遺しています。昭和五十一年(一九七六)の宮中歌会始の召人でもあります。また、母校鞍手高等学校、地元の木屋瀬中学校等、数々の校歌、市歌の作詞をするなど、幅広分野で活躍しました。
明治41年(1908)〜昭和59年(1984)
九州山十郎
きゅうしゅうざんじゅうろう
【力士・大関】
左を差して一気に寄りきる豪快な取り口を得意とし大正七年(一九一八)に大関になっています。
身長175センチ、体重124・5キロのがっちりとした体格をしていました。本名は青山十郎。当初、遠賀川の川締(川舟)で働き、素人相撲で活躍していたところ、勧められて上京し明治四十四年(1911)に出羽ノ海部屋に入門。大正六年に扇天満宮裏で九州山勧進元の地方巡業相撲が行なわれました。
明治22年(1889)〜l昭和2年(1927)
麻生東谷
あそうとうこく
【絵師】
本名は仁平、木屋瀬の商家「三塩屋」に生まれました。12歳頃から福岡の南画家村田東圃に師事。五年程学んだ後、木屋瀬にもどり、家業の米穀業を継いでいます。独学で絵を描きつづけ、明治三十四年(一九O一)に「楊貴妃画」が全国南画共進会で二等賞、翌年には「西国雅集」が一等賞を受賞しました。
花鳥図の他、人物、風俗画も得意としました。近隣の社寺には、東山の描いた絵馬や襖絵が残されています。
みちの郷土史料館では、作品をはじめ印章や絵道具などを保存しています。
天保7年(1836)〜明治41年(1908)
新谷鐵せん
しんたにてっせん
【絵師】
山水、花鳥、虎などの絵を描くほか達磨を得意としていました。木屋瀬に生まれ、本名は慶蔵。親戚の鍛冶屋に勤め、後に独立。生業のかたわら若松の南画家木村耕巌に師事し、「月下の虎」で評価をうけ、41歳頃画業に専念することを決意しました。
大正末には福岡で画業を行ない、昭和二年に中園、朝鮮、台湾などを旅して翌年帰国し、田川郡糸田町に居を構えました。
永源寺には、京都清水寺の大西良慶師の賛のある「達磨絵」が残されています。
慶応3年(1867)〜明治29年(1954)
野口援太郎
のぐちえんたろう
【教育家】
生徒の個性を伸ばす自由な教育を実践した教育家です。江戸時代の宿場問屋、野口家の長男として生まれました木屋瀬小学校に学び、鞍手郡公立中学校卒業後、一時木屋瀬小学校の教師を務めました。
福岡師範から東京高等師範へ進学、卒業後は34歳の若さで兵庫県第二師範(姫路師範)の初代校長に就任しています。自治自由をモットーとする寄宿舎を設立、生徒の個性や自立をめざすユニークな教育で、師範教育改革の模範と評されました。
退職後も、世界新教育会議日本代表など、活動は多彩です。スイスの教育家ぺスタロッチと対比され、「日本のぺスタロッチ」ともいわれました。
明治元年(1868)〜明治16年(1941)
吉田貞雄
よしださだお
【理学者】
専門の寄生虫研究で、世界的に高く評価された学者です。
八幡西区金剛に生まれました。木屋瀬小学校、鞍手郡立直方高等小学校から福岡県立尋常中学修猷館を経て東京高等師範、さらに東京帝国大学理科大学動物学科を卒業。大阪帝国大学理科大学教援となり寄生虫学教室を開設しています。
また、米国イリノイ州立大学優待員として招かれ、有力な科学者団体「シグマ・サイ」の会員に推薦されました。(財)船員病並びに熱帯病学奨励会賞を受賞するなど、その活躍ぶりがうかがえます。
昭和十三年吉田貞雄還暦祝賀会の祝辞で、野口援太郎は、彼の不携不屈の努力ぶりを褒めたたえています。
明治11年(1878)〜
昭和39年(1964)
渡辺玄外
わたなべげんがい
【僧侶】
木屋瀬下町に生まれ、幼名は徳平。幼少より他家に預けられた後、第二次長州征討の戦災に遭い、福岡市姪浜の三楽院に入りまじた。
12歳の時、崇福寺で得度、31歳頃玄外と号し、37歳で崇福寺の住職となり、八幡帆柱山麓に大正寺を建立。黒田家の菩提寺である崇福寺の復興や大徳寺の諸施設を拡充するなど、多くの足跡を残しています。
堂々たる体格で気骨がある僧侶として伝えられています。博多妙楽寺にある伊藤小左衛門(二代目)哀悼碑は、江島茂逸の文を玄外が書いたものです。
安政4年(1857)〜昭和3年(1928)