- 街道の歴史に声を傾け、遥かな道をたどる。北九州市 長崎街道 木屋瀬宿記念館 -
長崎街道 道と宿場
長崎街道は、江戸幕府唯一の開港場長崎と小倉・大里を結ぶ、脇街道でした。
肥前佐賀藩領では、彼杵、塩田、多良の3道筋に分かれていたため、宿駅の数は一定せず、彼杵通のコースだけで25、6ヵ宿を数えました。
長崎街道は、世界の文物や情報を、大阪・京都や江戸そして全国に伝える道であり、また、オランダ商館長や、参勤交代の九州諸大名、文人・商人らも利用する交通量の多い道として九州でもっとも重要な役割を持っていました。
参勤交代の大名行列、商人、神社へ参拝する庶民など、多くの人でにぎわった街道と宿場。長崎街道は、ケンペル、シーボルト、伊能忠敬、吉田松陰なども通った道です。
それぞれが宿場や街道の風景を紀行文に残しています。とくにシーボルトなど外国人にとって、街道の風景は直に触れることのできる、数少ない日本の風景でした。
医療技術をはじめ西洋の文化が全国に広まり、また、献上品として海外の 珍しい動物が、長崎街道を江戸へと向 かいました。象や孔雀、ラクダなどです。 数多くの絵が残されていることからも、その姿が当時の人々を驚かせたことが想像されます。
文化とともに、各地の産物が街道を経て流通しました。商人が各地をめぐる一方、輸出入の物品も長崎街道を通り運 ばれました。長崎出島に入港した異国船からは、貴重な砂糖や薬種、時計、ガラス製品が輸入されました。輸入品は長崎街道を通り、その製法とともに江戸へと伝わっていったのです。
街道の目印、一里塚。江戸時代、主要街道では、ほぼ「一里」(約4キロメートル)ごとに設けられていたため、そう呼ばれました。街道の両側に土を小高く盛りあげ、松や榎が植えられた塚でした。旅人は、この塚によって距離の目安としたのです。八幡西区、馬場山氏近くの茶屋の原に、一里塚跡の石碑を見ることができます。
木屋瀬をふくむ六つの宿場「黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田」が筑前六宿(ちくぜんむしゅく)と呼ばれていました。長崎街道の中で、もっとも交通量の多かったこれらの宿場。なかでも木屋瀬は、長崎街道と赤間道との追分の宿として、重要な役割を果たしていました。
宿場の主な役割は二つです。大名の休泊と、街道を通過する貨物や人に人足や馬を供給し物資を輸送すること。そのために公用の宿場施設がもうけられました。代官所、問屋場、郡屋などです。問屋場では、荷物の運搬を指揮し、人足や馬の世話をして街道の事務を一手に請け負っていました。代官所は、農民を支配して年貢米を徴収し、この他、郡屋・郡牢もありました。
北九州市立 長崎街道木屋瀬宿記念館
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